小学生のころから本を読むのも文章を書くのも抵抗がなくて楽しんでたけど、
夏休みの読書感想文だけはどうしても苦手だった
小学校1年生のころはわけがわからないまま課題図書で読書感想文を書いた
本はおもしろかったけど、強制される感想文はクソッタレだなと思った
クラス替えで毎年担任が変わるのを見越して、2年生のときには不朽の名作『マッチ売りの少女』の感想文を書いて、
3年生以降も流用してことなきを得た(細かいところは毎年直した)
学校ではたらいた悪事といえばこれくらい
学校の読書信仰は続く
中学生のころに朝読書の時間が始まった
朝の会の前にできた10分間の読書の時間
図書室には「読書の木」があった
貸出カードを一枚使いきったらそれが貼り出される、誇らしいやつ
読書新聞を書く授業があった
読んだ本のあらすじや感想を書いて、毎月廊下に全員分貼り出されるあれ
私は本が好きだったから感想文以外はどれも楽しかった
でも一度だけ、毎日持ってきているはずの本を忘れて、朝読書に読む本がなかったことがあった
そういう人のための学級文庫に、そのとき初めて手を出した
つまんなかった
私があのときの10分間に感じた苦痛を、毎日味わっていたクラスメイトもいたんだなと思う
大学生になってから、読書信仰に悩まされ始めた気がする
受験から解放されて自由になったから制約がないこと、
大人に近づいてるのに大人の読み物の読み方がわからないこと(新書とかね)、
そのわりに読んでなんぼという教育が刷り込まれていたせいで焦りが先行したこと、
もうぐっちゃぐちゃ
それでも本は好きで、読書も好きで、本屋が好きだった
本の数だけ世界があるんだよね
そう思うと嫌いにはなれなかった
こないだ『読んでいない本について堂々と語る方法』を読んだ
読まない自由もあるんだなとやっと気づいた
『バーナード嬢曰く。』のド嬢にも元気づけられた
自分の考え方と学校教育の刷り込みとのギャップが原因とわかれば、それでいい
読まなくても、読まないことでも得られるものはたくさんある
読まないことは恥ずかしいことではない
読書なんてのは曖昧なもの
大事なのは、本の波や著者に溺れないこと
呑み込まれないこと
本ではなくて自分自身を語ること
そう思うと肩の荷が下りて、今なら読書感想文も楽しく書けそうな気がしてくる
小難しい本も、別に読めなくていいしな!って軽い気持ちでいられるから、読むハードルが下がってくる
…結局、読書信仰に踊らされているのでは?
世の中におもしろい本が溢れてるのが悪い!